ログイン彼女の目は、倒れた夫への心配よりも、純粋に自分に迫り来る得体の知れない存在への恐怖で見開かれていた。
彼女が命より大切にしていた、有栖川の権威を示す高価なアンティーク家具や、床に敷かれたペルシャ絨毯。それらが、黎様の足元からじわじわと広がる黒い冷気によって、色を失い、ボロボロに腐食していく。 他人の犠牲の上に築き上げた彼女の薄っぺらな虚栄の城が、文字通り、足元から崩れ去ろうとしていた。「やめて! 私の家よ! 私の大切な家具が、絨毯が……っ!」 継母の甲高い叫び声が、冷え切った空気に虚しく反響する。 だが、黎様は、床を這いずる有栖川の人間たちなど、路傍の石ころほどにも認識していないようだった。 ただ真っ直ぐに。 黄金の瞳孔を縦に細め、床に膝をつく私の姿だけを、真っ直ぐに捉えていた。◇
「……ッ、来ないでよぉぉぉっ!!」
突如、部屋の隅から鼓膜を突き破るような金切り声が上がった。 泥と崩れけれど、もしそれを解決する方法があるのなら。「……行きます」 声が、震えずに口から出た。 ソファに沈んでいた巨体が、バッと顔を上げる。「馬鹿なことを言うな! あの家には二度と近づかせんと言ったはずだ!」 空気をビリビリと震わせる怒声。「でも、このままじゃ、私は……」「お前が灰になる前に、俺がこの街の淀みをすべて吸い尽くしてやる! だから、ここから動く必要はない!」 ドンッ! と、大理石のテーブルを叩く大きな音。 置いてあったプリンの空き瓶が跳ねて、床に転がり落ちた。 怒っているのではない。ただ、ひどく怯えているのだ。 有栖川の家に戻って、また傷つけられることを。 そして、命が尽きるかもしれないという現実から、ただ目を背けようとしている。 その不器用な必死さが、どうしようもなく可笑しくて、同時に泣きたくなるほど愛おしかった。「……嫌です」 フローリングを強く踏み締め、黄金の瞳を真っ直ぐに見返す。「私は、灰になりたくありません。……もっと長く、美味しいプリンを食べて、お茶を淹れて、笑って生きたいです」 肺いっぱいに、清潔な空気を吸い込む。「だから、取り戻しに行きます。おばあ様が、残してくれたものを」 視線が激しく絡み合う。 顎の筋肉がギリッと硬く引き締まり、何かを言い返そうと口を開きかけた。 だが、その言葉が音になることはなかった。 部屋の空調の音が、やけに大きく聞こえる。 ただ真っ直ぐに見つめ返す視線の前で、やがて、深く、重いため息を吐き出して、乱暴に頭を掻き毟る姿があった。「……チッ。どいつもこいつも、勝手なことばかり言いおって」 忌々しそうに吐き捨てながらも、その声には先ほどまでの頑なな拒絶はもう含まれていなかった。 横で見ていた白亜が、ポンッと軽く手を叩く。「決まりだね! じゃあ、明日にでもその『奈
黄金の瞳が、遠い過去の情景を映すように細められる。「老婆の持つ空気は、この街の人間どもよりは澄んでいた。だが、肺の痛みを完全に消し去るほどの力はなかった。……ある日、老婆はこう言ったのだ」『私には、この地の淀みを払い切ることはできません。けれど、私の孫娘が、いつか本当の清らかな風を連れてくるでしょう』 祖母の声を、私はもう正確には思い出せない。けれど、膝に頭を預けた時の線香の匂いと、白髪の混じった手が髪を梳いてくれた温度だけは、身体のどこかにまだ残っていた。 その祖母が、私の知らないところで、黎様の孤独を知っていた。私が生まれるより前から、暗い奈落の底で、二人は同じ淀みを見ていたのだ。 胸の奥が、カッと熱くなった。 あの雨の夜、裏庭で偶然出会い、都合のいいフィルターとして拾われたわけではなかった。 祖母は、知っていたのだ。この街の地下で苦しむ、巨大な存在のことを。「俺は、その言葉など信じていなかった。人間の寿命など一瞬だ。孫娘が来る前に、焼け焦げる方が先だと思っていた」 太い指先が、目元を覆うように当てられる。 肩が微かに上下し、絞り出すような呼気が漏れた。「だが、雨の夜。裏庭で倒れ伏していた胸に触れた手のひらから、あの老婆と同じ、いや、それ以上に純度の高い風が流れ込んできた。……だから、手放せなくなったのだ」 その言葉は、甘い告白ではなかった。必要だから離せないという、ひどく身勝手で、痛々しいほど切実な本音だった。 それでも胸の奥がきゅっと軋む。私を見つけた理由が能力だったとしても、今、目の前で言葉を選べずに苦しんでいるこの人を、ただ怖いだけの怪物だとはもう思えなかった。 不器用な、告白のような響きだった。 単なる機能への執着ではなく、何百年もの苦痛の果てに現れた「予言の証明」としての重み。 白亜が、テーブルに両手をついて身を乗り出した。「お姉さん、あんたのその力、おばあさんから受け継いだものだったんだね。でも、おばあさんの痕跡が残ってるあそこの地下には、その力を安全に使うための『何か』が隠されてるは
「……なぜここにいる」 隣に立つ大柄な男の喉の奥から、純度百パーセントの不機嫌な唸り声が漏れた。「なんでって、ゲストルームのベッド借りるって言ったじゃん。ベランダの窓、少し開いてたからお邪魔させてもらったよ。このプリン、すっごく美味しいね! 卵が濃い!」 悪びれる様子もなく、白亜はケラケラと笑いながら四つ目のプリンに銀のスプーンを突き立てる。「勝手に入るな。今すぐベランダから放り投げるぞ」「まあまあ、怒らないでよ。ちゃんと家賃代わりの有益な情報を持ってきたんだから」 白亜はソファから立ち上がり、窓の外、東京のビル群を見下ろした。 手にしたプリンの瓶をコトリとテーブルに置き、長い銀髪をバサリと背中へ払う。「ラウンジでさ、お姉さんの魂の匂いを嗅いだとき、どこかで似たような気配を感じたなーってずっと思ってたの。それで、上空からちょっとこの街の空気の淀みを観察してみたんだけど」 アイスブルーの瞳が、真っ直ぐにこちらへ向けられる。 先ほどまでの無邪気な笑みは消え、何百年も生きる生き物特有の、底知れぬ深さを持った視線だった。「お姉さんが前にいたっていう家。あそこの地下から、お姉さんと同じ、すごく古い『清浄な空気』の痕跡が漏れてるよ」 有栖川の家。地下。 その単語を聞いて、背筋にぞくりと冷たいものが走った。 カビと埃の匂いが充満する、あの冷たくて薄暗いコンクリートの地下室。「地下って……あの家には、使われていない物置部屋があるだけです。古い家具やガラクタが放り込まれているだけで……」「ううん。もっと奥。土の底の、もっと深い場所に、何か古いものが埋まってる。……お姉さんの魂の匂いと、よく似た何かがね」 隣で聞いていた呼吸音が、ふっと不自然に止まった。「……奈落か」 ぽつりとこぼれ落ちた、ひび割れた声。「奈落?」「有栖川の屋敷の地下深くにある、古い穴倉のことだ。……
ホテルのラウンジから地下駐車場までの道のりは、驚くほど無言のまま過ぎた。 太い指に手首を掴まれたまま、その大きな歩幅に合わせるのに必死で、足元の絨毯の模様ばかりを見ていた。 車に乗り込むと、革張りのシートが冷たく背中を撫でる。 重いドアが閉まる鈍い音が、密室の完成を告げた。 運転席に座る巨体から、怒りとも焦りともつかない、ギリギリと張り詰めた熱波が伝わってくる。 ハンドルを握る関節が、革が悲鳴を上げそうなほど力み返り、白く変色していた。『竜に愛される覚悟、ある?』 白亜の透き通るような声が、まだ耳の奥でチリン、チリンと小さな鈴のように鳴り続けているような気がした。 車が走り出し、初夏の明るい日差しがフロントガラスを照らしているというのに、車内は冷凍庫のように冷え切っていた。 シートベルトの金具を無意味に指でなぞりながら、隣の横顔を盗み見る。 彫刻のように整った顎のラインは固く引き結ばれ、前方から一切視線を逸らそうとしない。 いつもなら「空気が澱んでいる」と文句の一つでも言うはずなのに、頑なに口を閉ざしている。 寿命の差。 その事実を突きつけられ、明確な反論ができなかった不器用な主は、ただひたすらに沈黙を盾にして自分を守っているようだった。「……あの」 たまらず声を出すと、隣の広い肩がビクッと跳ねた。「……なんだ」 地を這うような低い声。怒っているというよりは、何かを極度に警戒しているような、硬い響きだった。「エアコン、少し寒いです。温度を上げてもいいですか」 その言葉に、目に見えてホッとしたような息が漏れる。「……ああ。好きにしろ」 太い指先が、乱暴な手つきでコンソールパネルのボタンを叩く。 カチッという音と共に、吹き出し口から微かに温かい風が流れ込んできた。 それでも、二人の間にある見えない氷の壁は、溶ける気配を見せない。 地下駐車場のエンジン音が切れ、車を降りる。 コンクリート
白亜の言葉の意味が、うまく頭に入ってこない。「おばあさんから受け継いだ力だと思ってたけど、違う。あんた自身の魂が、周りの淀みを吸って、自分の熱を燃やして綺麗な空気に変えてる」 白亜の視線が、再び黎へと向く。「黎。あんた、この人を傍に置けば置くほど、この人の命の炎を早く燃やし尽くさせることになるよ。普通の人間より、もっと早く灰になる」 ガタンッ! と。 黎が椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。 背の高い椅子が後ろに倒れ、重い音を立てて床に転がる。 周囲の客が、一斉にこちらへ視線を向けるが、黎の放つ圧倒的な威圧感に気圧され、すぐに目を逸らして会話を止めた。「……帰るぞ」 低い声には、怒りよりも、何か決定的な恐怖から逃れようとするような切迫感が混じっていた。 太い手が伸びてきて、手首をガシッと掴む。 痛くないギリギリの力加減。けれど、絶対に逃さないという強固な拘束。「待ってください、黎様。お会計が……」「テーブルに置いてある。行くぞ」 見れば、テーブルの上には、分厚い紙幣の束が無造作に投げ出されていた。 引っ張られるようにして、ラウンジの出口へと向かって歩き出す。 背後から、白亜の声が追いかけてきた。「お姉さん!」 振り返ると、白亜はパフェのグラスの横で頬杖をつき、真っ直ぐにこちらを見つめていた。 アイスブルーの瞳が、静かに、けれどはっきりと問いかけてくる。「竜に愛される覚悟、ある?」 その声は、ラウンジのBGMにも、周囲のざわめきにも掻き消されることなく、鼓膜の奥深くまで届いた。 手首を掴む黎の手から、ドクン、ドクンと、重く早い心音が伝わってくる。 彼自身の迷いと、手放したくないという強烈な執着。 ホテルの自動ドアを抜け、外の通りに出る。 初夏の日差しがアスファルトを白く照らし出しているというのに、繋がれた手首の熱さだけが、世界で唯一の温度のように感じられた。 覚悟。 果てしない時間の中で、瞬
「白亜」 空気を押し潰すような、重い声が遮った。 黎の黄金の瞳孔が、針のように鋭く収縮している。「それ以上、下らぬ口を叩くなら、ここがお前の墓場になるぞ」 右手の指先が、テーブルの大理石の縁に食い込んでいる。ミリ、ミリと、硬い石が軋む嫌な音が鳴った。 だが、白亜はふうっと短く息を吐き出して、呆れたように首を振った。「怒るなってば。事実を言ってるだけでしょ。黎、あんた、自分の執着がこの人にとってどれだけ重いか、ちゃんと分かってるの?」「俺はこいつを、外の淀みから守っている」「守る? ただの空気清浄機として箱に閉じ込めておくことが? それとも、本当は番にしたいから、自分の手元に縛り付けてるの?」 ドクン、と。 隣から、信じられないほど大きな心臓の音が響いた。 黎の口がわずかに開き、そして、何も言葉を発することなく、再び固く引き結ばれる。 否定の言葉は出なかった。 ただ、眉間を深く寄せ、視線をテーブルに落としたまま、ギリッと奥歯を噛み締める音が微かに聞こえるだけだった。 沈黙。 その答えに詰まる姿が、何よりも雄弁に物語っていた。 グラスの表面に張り付いた水滴が、重力に耐えきれずにツーッと滑り落ち、コースターに吸い込まれていく。 冷たい水滴の軌跡を見つめながら、息が浅くなるのを感じた。(私が、この人を苦しめている) 隣から伝わってくる、火傷しそうなほどの熱。 夜になれば、不器用に髪を梳いてくれる大きな手。 その優しさに甘えて、ずっとこのまま傍にいたいと願ってしまった。 でも、その願い自体が、重荷をどんどん大きくしているのだ。「……黎様」 震える唇を無理やり動かし、小さな声で呼ぶ。 黎の肩がピクリと跳ね、黄金の瞳がこちらを向いた。「私……」 何を言えばいいのか、分からなかった。 離れた方がいい、と言えばいいのか。それとも、命が尽きるまで傍にいるから許してほしいと、自分勝手な願いを口にす
口の中に広がった強烈なチョコレートの甘さとナッツの脂質が、干からびた脳髄に直接雷を落としたかのような衝撃を与えた。 美味しい。ただの市販のお菓子なのに、人生で食べたどんな高級料理よりも、圧倒的に美味しく感じられた。 「……んっ、ひぐっ……」 咀嚼しながら、不意に視界が滲んだ。 ポロポロと、大粒の涙が膝の上にこぼれ落ちる。 お父様に打たれた時も、理恩に婚約破棄を突きつけられた時も、地下室に閉じ込められた時も、決して泣かないと決めていたのに。 この恐ろしい化け物の不器用な施しが、張り詰めていた心の糸をプツンと切ってしまっ
買い物を終え、重厚な紙袋を手渡された後、二人はブティックを出て再び通りへと戻った。 麻里亜の手には、ブランドのロゴが大きくプリントされた紙袋が握られている。理恩にもいくつかの荷物を持たせ、彼女は満足げに足取りを弾ませていた。 「少し、どこかで休憩しないか」 視界の端がチカチカと点滅し始めたのを感じ、理恩は立ち止まって提案した。 首の付け根に張り付くような重さが、いよいよ背中全体へと広がってきている。まるで、見えない泥の塊を背負わされているような、息苦しい感覚だった。 「いいですね。じゃあ、あそこのカフェに行きましょう。あそこのテラ
路地裏のどん詰まりには、錆びついた分厚い鉄の扉があった。 看板も何もない。ただ、扉の隙間から、ひどく淀んだタバコの煙の匂いと、微かな機械の駆動音が漏れ聞こえてくる。 黎はノックなどしなかった。 空いた方の手で扉の取っ手を無造作に掴むと、ミシッ、という不吉な金属音とともに、鍵のかかった鉄扉を力任せに引き開けたのだ。蝶番が悲鳴を上げ、歪んだ金属片がパラパラと足元にこぼれ落ちる。 「……なんだテメェ!」 扉の奥から、怒声が飛んできた。 そこは、薄暗い蛍光灯に照らされた地下駐車場の跡地のような空間だった。無造作に置かれた折りたたみ机には、ノートパソコンと札束の山。その周囲を、安
「もうすぐ焼けますよ。お皿を出してもらってもいいですか? そこの上の棚に入っているはずです」 私が自然に指示を出すと、黎は文句を言うこともなく、無言で長い腕を伸ばして戸棚を開けた。真っ白な陶器のプレートを二枚、大理石のカウンターの上にコトンと置く。 その素直な動作がなんだか可笑しくて、私は再び笑みを噛み殺しながら、ベーコンと目玉焼きをお皿の上へと滑らせた。 広いダイニングテーブルの向かい合わせの席に、二つのプレートが並べられた。 黎は椅子に深く腰を下ろし、備え付けられていたシルバーのフォークを手に取る。 だが、その様子もまた、ひ







